伊都国女王卑弥呼 >図1

邪馬台国図1



邪馬台国図1


青の部分は「邪馬壱国」の範囲。緑の部分は「女王国」の範囲。

南至邪馬壱国女王之所」 の「女王之所」が陳寿が何度もいう「女王国」であるならば、 邪馬壱国の中に「女王国」が存在することになる。「女王国」これは

「世有王皆統属女王国
「自女王国以北其戸道理可得略載」
「自郡至女王国万二千余里」
「自女王国以北特置一大率」
女王国東渡海千余里」

この様に陳寿は何度も「女王国」という言葉を使い、女王卑弥呼が居る場所 を「女王国」であると断言して使っているので、これ以上わかり易い表現はないと思います。


南至邪馬壱国女王之所」を


「邪馬壱国」は「女王之所」と解釈
「邪馬壱国」の「女王之所」と解釈


上記二通りの違いは間に「は」を入れるか「の」をいれるかの違いだけであって これだけで日本語として全く違う意味となります。

原文は「南至邪馬壱国女王之所」だけなので、これを日本語でどう解釈 するかの問題であり、(二通りの可能性があり上記に示しました)決して漢文の 問題ではありません。

だから三国志、魏志倭人伝をどう解釈しようとも それは間に「は」を入れての議論であり、二通りの可能性の一方でしかありません。 それでは一向に解決できないのは周知のとおりです。

もう一方の間に「の」を考える場合、これまでとは全く違った意味になり新しい 世界が見えてきます。



邪馬台国は分からないまま、そしてロマンがある。 いつまでも邪馬台国はわからないままでいいのだろうか。 邪馬台国を解決する手段として考えられるのは「親魏倭王」の金印が出土することが 誰もがわかりやすく、また考古学的物的証拠として納得できるものだがもちろん出土なんかしていない。 考古学を離れて別の方法は考えられないだろうか。

私は邪馬台国の研究をしているので自分なりの考えを持っているが、 同じ様な人が百人居たら私は百人の中の一人でしかない。 百人居ると百通りの意見があるのが普通で、私はその一つの意見でしかない。 私が自分の意見を通す為には検察の証拠と同じで私が自分の考えを証明する為に証拠を集めたらいいのだ。 すると他の九十九人の意見を否定しないといけないということにはならない。

例えば、ある山で人が遭難したとする。 その人は車で山の麓まで行き、そこに車を停め登山口から一人で登って行った。 その後、下山予定を過ぎても帰らないと家族が警察に電話する。 そして大掛かりな捜索が始まる。

手がかりとなるのは、本人が残した車。状況としてはそこから山の頂上までの どこかにいるからその範囲が捜索範囲になる。何百人にもなる捜索隊が山に 入り探すことになるから、すぐに発見できると思っていたがいっこうに見つからない。

何故か? 私は邪馬台国が謎のままなのはこれに似ているからとしか思えない。 見つかるはずの遭難者、見つかるはずの邪馬台国。 前者の答えは遭難者が頂上まで登った後、間違って反対側に降りてしまい道に迷った。 これでその人は帰れない状況になってしまった。 捜索隊がいくら車から頂上までのルートを探しても見つけられない。 遭難者はそこにはいないから。

邪馬台国が謎のままな理由は人々が邪馬台国は、と(は)を使っているからであり、 これに気づかないと日本中を探しても答えは出てこない。 邪馬台国は首都ではないから。



それは突然やってきた。 ある日、メールがきた。伊都国女王卑弥呼を見た方からだった。 内容は「南至邪馬壱国女王之所都」について「女王之所都」を (女王の都)、と解釈しているが、「」は日本語でいう首都という意味の 他に別の違う意味があるという指摘だった。

」には首都の他に(すべて)の意味があるという。 私は初耳だったが、後日現代中国語ができる人間にその話をしてみた。 すると確かに「」には(すべて)の意味があるという。 私にとってとても興味深い話だ。

今までにもいろんな意見を目にしてきたが、これと同じ意見はなかった。 「」の前後は「女王之所都水行十日陸行一月」と書かれている。 「」が(すべて)の意味の場合、後半の「都水行十日陸行一月」は (すべて)「水行十日陸行一月」と日数だけを表す意味になる。 「」以前の部分は「女王之所」になるから文字どうり 女王の所になり、続けると

南、邪馬壱国の女王の所、すべて(全部)で「水行十日陸行一月」。 何とすっきりした訳仕方なんだろう。ずっしりとくる。

女王之所」これを従来の様に邪馬台国は女王の所。 と訳してしまっては意味がない。 何度も書いてきたように「七万余戸」の戸数がある約45万人が生活する場として (邪馬台国が)首都は有り得ない。

やはり  邪馬台国の女王の所、と訳して 「女王之所」は何度も書かれている「女王国」が首都にふさわしい。

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