何故なら?
「南至邪馬壱国女王之所」を「邪馬壱国」の(にある)「女王の所」と訳す。すると「女王の所」は「女王国」だから。
証拠は?
卑弥呼が貰った「五尺刀」が出土しているのは伊都国です
「世有王皆」と書かれ唯一王の記述がある国は伊都国です
平原遺跡は女王の墓であり存在するその国は伊都国です
伊都国から千里で下関。
「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」
だから?
邪馬台国はどこか?と問われれば、私は
邪馬台国は二十八ヶ国を有し、その首都は伊都国と答える。
(図2)
伊都国を見る
魏志倭人伝と伊都国
邪馬台国は首都ではなかった。
魏志倭人伝の「南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月」を元に邪馬台国は女王の都とする常識がある。
私はこれを否定し間違いを指摘することができる。
1.「都」の文字には(首都)という意味の他に現代中国語において(すべて)の意味がある。
2.楽浪郡の記録を元に邪馬台国の人口を推定する方法。
1.の「都」の意味について従来通り(首都)と訳する方法は邪馬台国の女王の都までは「水行十日陸行一月」。
と読むことができ、
又、(すべて)と訳す方法では後ろの「水行十日陸行一月」につながり(すべて、全部で水行十日陸行一月)。
邪馬台国の女王の所、までは全部で水行十日陸行一月となる。
「女王之所都」の部分を「都」まで読んで区切るか、前の「所」の間で区切るかで意味が異なる。
当然ここにはレ点や一、二点はありません。
「都」の文字の意味が異なる場合、区切る場所によっては文章自体意味が他にもある可能性がある。
2.邪馬台国の人口の視点から。
一世紀の漢書、地理志に楽浪郡の記録が書かれている。
楽浪郡は 25県を有し、戸数6万2812戸。人口406748人。
これを見る限り、一戸あたりの平均は約6.47人。
楽浪郡の一県あたりでは平均戸数は約2512戸。
これは楽浪郡の一戸あたりの平均を計算して出した数字です。
これを元に邪馬台国のおおよその人口を推定することができる。
一戸約6.47人に「七万余戸」を掛けると約45万人。
邪馬台国の「七万余戸」が約45万人と分かった時点で、当時の状況を考えた場合、
例えば糸島市には伊都国があり春日市には奴国がありそれぞれ発掘が行われると
いろんなものが出土する。当時これらには環濠集落があり、魏志倭人伝では
それらを「国」と書いている。これらの当時の環濠集落を「国」という時代背景を
考えた場合、約45万人が住む場所を(首都)とするにはあまりにも不自然で私はこれはないと思う。
1,で指摘した(首都)や(すべて)の意味がある「都」の可能性を見ると当然(首都)の可能性はなくなる。
邪馬台国は(首都)ではなく文字通りの国であり国々の総称であり卑弥呼に属していた国々の範囲を指す国名です。
卑弥呼はどこかに居たわけだから卑弥呼が居た場所を首都と表現しているとすれば魏志倭人伝をみる限り、
それは「女王国」と書かれていた可能性が高い。「女王国」は何度も書かれているのに対し「邪馬台国」は一回のみ。
陳寿が卑弥呼が居る特定の場所を何度も書き、表現していたとすれば魏志倭人伝に書かれている既存の特定の国が
存在し、首都の役割を持っていた。特定の国の王が女性であり、その国を「女王国」と陳寿が表現したとすれば
それは伊都国しかない。
卑弥呼が貰った「五尺刀二口」と長さが同じ120cm(魏の時代の一尺24cm)の太刀が伊都国から出土している。
これは伊都国を掘る柳田康雄氏、に書かれて指摘されているが、私は首都である「女王国」が伊都国だったら
出土して当然と考える。考古学的な証拠として「親魏倭王」の金印がなくてもこの「五尺刀」で証拠は十分だと
思う。
はじめに
二つの考古学的証拠が揃った場所は伊都国
これを読まれている方々は邪馬台国が好きだと思います。私も好きです。
世の中にはいろいろな説が書かれた本が売られています。それを読んでいるうちに
なんだか物足りなくなりました。魏志倭人伝の原文はどう書いているんだろう?と
考えたことがこの伊都国女王卑弥呼を考えるきっかけとなりました。
原文にはレ点や一、二点は書かれていません。
本を買って読むことはいいことですが、その読み下し文は残念ながら著者の考えが
入っています。これが邪馬台国について多くの考えが存在するという事実になっています。
だから本を買う時には原文が書かれたものがないか探してみて下さい。
ネットでも探すことができます。
原文を見ていくと邪馬台国と「女王国」の違い、「女王国」と「女王」の違い等、
原文を見ていないと気が付かない点の発見がありました。
そして邪馬台国がどこにあるのか分からない中、伊都国女王卑弥呼という考えが
固まりサイトを更新していく時、すでに考古学的に証拠が揃っていることに気づきました。
伊都国には女王墓と「五尺刀」の二つが既に発掘されていたのです。
伊都国以外の地に考古学的証拠が揃った候補地は他には存在しません。
多くの方はこれを説明する時に伊都国と邪馬台国は別の国と考え重視されていません。
しかし二つの考古学的証拠が揃った場所は伊都国なのです。
何故伊都国にこれらが存在するのか?という議論を避けて、
他に候補地がどこにあるのかという議論は順番が間違ってませんか?
女王卑弥呼(ひみこ)が居た場所は?
と聞かれて邪馬壱国(邪馬台国)と答える人は100人中100人だと
思います。しかし邪馬壱国(邪馬台国)の場所は見つかっていませんし、少なくとも
女王卑弥呼の居る有力な場所を断定できていません。
これって何かおかしいと思いませんか?
今わかっている中で邪馬壱国(邪馬台国)は「七万余戸」と書かれています。
この「七万余戸」
でさえ現在のどこか分からないのです。
福岡平野は奴国と書かれ人々が多く住み、至る所に遺跡があります。
この密集した地域でさえ、「二万余戸」と書かれ「七万余戸」は
とても大きな数だと改めて考えさせられます。
帯方郡の前身であり平壌に置かれた楽浪郡の記録が「漢書」地理志にあります。楽浪郡は
25県を有し、戸数6万2812戸です。ここで重要なのは25県の合計が6万余りの戸数になるということです。
そして女王卑弥呼が居た場所が邪馬壱国(邪馬台国)で「七万余戸」。
これって女王卑弥呼が居た都(首都)が「七万余戸」ですよね。
そんなことありえるのでしょうか?
中国の正史には各時代の国の国名が書かれていて、その国名と一緒に
その戸数が書かれています。戸数というのはその国の総戸数のことです。
全て確かめたことはありませんが、これが通常の記録の書き方だと思います。
しかし魏志倭人伝として有名な魏志倭人伝の中に書かれている「七万余戸」
は、今の常識では「女王之所」の戸数とされています。
「七万余戸」が「女王の所」という首都の戸数であるということは、
あくまで「七万余戸」が首都の戸数であり国の総戸数ではないということになります。
しかしそれでは首都の戸数は書かれているのに、国の総戸数は書かれてないということになってしまって
不自然な表現なままになっています。
また福岡平野が弥生銀座と呼ばれ「二万余戸」の地域ならば、
同じ密度で人々が暮らしていたとしても、福岡平野よりも三倍から四倍の
面積が必要となり、これが「七万余戸」の戸数になるのです。
このように一点に集中するという意味において、邪馬台国という
首都が「七万余戸」ということは
物理的にありえないと思うので、
ここでは邪馬壱国(邪馬台国)という国があったとし、邪馬壱国(邪馬台国)
の「七万余戸」は首都ではなく邪馬壱国全体の戸数と考えます。
ただし女王卑弥呼は邪馬壱国(邪馬台国)の女王であることは間違いありません。
しかし女王卑弥呼の居場所を考える場合、邪馬壱国(邪馬台国)だけでは説明ができず不十分なのです。
それでは女王卑弥呼が居る場所、邪馬壱国(邪馬台国)が不十分であるならば、
陳寿が何と書いた場所が女王卑弥呼の都、邪馬台国の首都
だと説明できるのか?
これは魏志倭人伝にでてくる、「女王之所」や「女王国」です。
また「女王国」は陳寿が何度も使っている言葉であるので、
この「女王国」は「女王之所」であると考えられます。
ですから「南至邪馬壱国女王之所」は邪馬台国の中にある首都
「女王之所」であり、女王卑弥呼がいる場所は邪馬台国の中にある首都「女王国」です。
つまり邪馬台国という国は存在したが、邪馬台国という首都はなかったということです。
古代史の謎、鬼道により衆を惑わすと書かれた女王卑弥呼。興味ある方はお進み下さい。
邪馬台国の国名
一般には邪馬台国と呼ばれています。
しかし国名は正確には「邪馬壱国」が正解です。
というのも卑弥呼とほぼ同じ時代に魏志倭人伝を書いた
陳寿という人がそう書いたからです。
また「邪馬壱国」は卑弥呼がいる首都と考えられていますが、
私は国名だと思います。「女王之所」や
「女王国」が首都と考えているからです。
また国名の意味からも「邪馬壱国」が正しいことがわかります。
卑弥呼より約200年程前に漢は金印を送りました。
「漢委奴国王」の金印です。これは
「委」と「奴」を別に読み、
「委」の国の「奴国」に与えたという意味から
「カンノワノナノコクオウ」と読まれましたが、本当にこれでいいのでしょうか。
万里の長城は匈奴から守る為に作られました。この匈奴の奴はヤツラという意味です。これと同じ奴を使っているのですから、委の奴ではなく
委奴と読むべきではないでしょうか。
「委」という民族に対して見下した言い方で、委奴と使ったと思います。
委奴は「ワド」と読むのかもしれませんが、後の女王卑弥呼の時代に倭国と呼ばれるのですから、
もちろん「委」と「倭」は同じ民族名です。
ここで最初の「邪馬壱国」に戻りますが、
ここの壱国の部分は「イコク」や「イチコク」と読むべきです。
しかし、「壱」と先程の「委」また「倭」は
同じ民族名とするならば「ワ」ではなく「イ」としか考えられません。
ですから倭国「イコク」を見下した言い方をした国が
邪馬壱国「ヤマイコク」なのです。
また「漢委奴国王」の正しい読みは
「カンノイドコクオウ」もしくは「カンイドコクオウ」が正解だと思います。
お知らせ
2011年
三雲南小路王墓西側に古墳時代の竪穴住居
伊都国歴史博物館で開催された「伊都学」
「国宝、内行花文鏡」ー超大型鏡の諸問題ー に参加。
講師国学院大学教授柳田康雄先生。
九州説
伊都国への行き方
福岡空港、博多駅から筑前前原行き、西唐津行きの地下鉄に乗り周船寺駅で下車、伊都国歴史博物館までタクシー約10分。
又 平原遺跡に行くにはもう一つ先の波多江駅で下車、タクシーで約10分。
九州大学移転(伊都キャンパス)に伴い新駅「九大学研都市駅」9/23日開業。(今宿駅ー周船寺駅間)
このサイトは伊都国と女王卑弥呼について邪馬台国についての考察と検証をし、
構成されています。
よってこのサイトは近畿、畿内説、九州説ではなく伊都国説です。
お問い合わせ 御感想お待ちしております
メール
itokoku@hotmail.co.jp
伊都国の歴史における最大の功労者 故原田大六氏に捧げる
管理人 堀川せいじ
プロフィール
2010年
糸島市の三雲・井原遺跡から2004年2006年に発掘されたガラス小玉の中から
黄色と紫色の珍しい小玉が含まれていることがわかった。
黄色は甕棺から出土しソーダ石灰ガラスで西アジアから北アフリカ、欧州。
紫色は二つの木棺から出土し、カリガラスでインドから東アジアに分布。
糸島市の上覚地区で弥生時代中期末の溝、古墳時代初頭の箱式石棺墓が見つかった。
3月13日10時から現地説明会。
伊都国がある前原市、二丈町、志摩町が合併し糸島市が誕生。
2009年
奴国と考えられている那珂遺跡群の一部から巴形銅器鋳型が出土した。弥生時代後期のもの
で井原鑓溝王墓から出土の巴形銅器に類似。
伊都国歴史博物館の新館長に榊原英夫氏が就任。
前原市は伊都国散策マップを作った。配布場所は前原市役所、伊都国歴史博物館。
3月1日三雲、井原に広がる鑓溝地区で現地説明会。
伊都国歴史博物館公式ホームページで刊行図書が紹介され郵送でも購入可能となりました。
2008年
10月29日、元岡・桑原遺跡群からシカ、太陽、建物、鳥が描かれた木製琴が出土。弥生時代中期末。
さし歯型の木製品が見つかった。鋸歯文というのこぎり型の文様が二重に描かれ半円形で赤い顔料
が塗られている。顔を隠すために使われた可能性。また鳥形の木製品も見つかった。弥生中期、2000年前のもの。
伊都国歴史博物館で昨年出土の展示。6月29日まで。
福岡市西区元岡遺跡群で青銅製鞘尻が見つかった。弥生時代中期後半から後期のもので、
成分分析では漢・三国時代の中国製で弥生時代の出土例は無く国内最古。
中国では別の用途として木簡等の文字を削りとる。
福岡市西区元岡で小銅鐸、顔料が塗られた土器と共にイノシシ、シカ、イルカ等の動物の骨約50点が
発見された。祭祀用とみられる。
前原市の公式サイトがリニューアル。
2007年
九州国立博物館を見学された天皇皇后両陛下が平原遺跡出土の大型内行花文鏡を御覧になりました。
福岡市西区大塚遺跡で鍛冶工房が完全な形で見つかった。
福岡市西区元岡でひょうたん型の土器が出土。弥生中期のもの。
今宿五郎江遺跡で楕円形に広がる環濠集落を確認。8/4日10時から現場説明会。
10日から26日まで福岡市埋蔵文化財センター(月曜休)で公開。
伊都国歴史博物館で昨年出土の展示。7月1日まで。
前原市井原で内行花文鏡が出土。割って被葬者に敷かれた状態。
平原歴史公園が「日本の歴史公園100選」に選ばれる。
伊都国歴史博物館館長西谷正氏が退任、名誉館長に就任。新館長菊竹利嗣氏就任。
今宿五郎江遺跡から漆の文様が入った木製品が出土。弥生時代後期のもの。
2/4日、伊都国歴史博物館にて井原鑓溝遺跡についての講演会開催。
2007年以前
前原市教育委員会主催による史跡をめぐるハイキング開催。11/5日、10時~15時
国宝指定記念特別展「大鏡が映した世界」展。伊都国歴史博物館にて10/7~11/19日開催。
記念シンポジウム「大鏡が映した世界」~卑弥呼は大鏡をみたか~伊都文化会館にて10/9日、13時~16時30。
前原市、国宝の里づくりにキャッチフレーズ「のぞいてごらん 伊都国ロマン 日本一の大鏡の里”まえばる”」に決定。
6/24日、伊都国歴史博物館にて「国宝」を記念しての祝賀式典。
志摩町歴史資料館は4/1日から開館時間、休館日が変更。
平原遺跡から出土の銅鏡40面や玉類等が国宝に指定(内定)されました。
3/18日、平原歴史公園の整備が終了、一号墳の墳丘が再現。
3/23日、「伊都国と元岡周辺」館長講演会。JA福岡市元岡支店。
三雲八龍遺跡で集落域と墓域を分ける大溝二本、再発見。
出雲市中野町の中野清水遺跡で伊都国産の甕型土器が出土。九州以外で出土は初。
福岡県前原市伊都国歴史博物館は新館開館一周年、10/29日。
志摩町歴史資料館は9月1日(木)~27日(火)まで休館。
元岡桑原遺跡群で、小銅鐸2点と大量の弥生土器が見つかった。
井原鑓溝遺跡から国内最古の鉛ガラス製の「連玉」が見つかった。弥生時代後期の甕棺から計13点出土。
平原遺跡の出土品(国指定重要文化財)を「国宝」に昇格させようと、前原市教育委員会が陳情書を文化庁に提出。
伊都国歴史博物館において「伊都国発掘2005」開催。平成16年度の市内の発掘調査の成果が紹介されます。4/22~6/5。
西谷正館長による古代史における日本とアジアの関わりを学ぶ講座(全10回)。4月~3月。
伊都国歴史博物館において三雲南小路遺跡出土品(重要文化財:聖福寺所蔵)を展示。期間限定3/19-25。
「三雲南小路遺跡出土品について」の講演が3/20日伊都国歴史博物館において、講師博物館館長西谷正氏。
伊都国の井原で「世有王」の内の一人の王墓再発見?。「方格規矩四神鏡」が出土。
伊都国歴史博物館が開館しました。
前原市、伊都国地域密着サイト、いとぐら(伊都蔵)に掲載されました。
since2004
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