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魏志倭人伝



女王卑弥呼が首都としていた所は邪馬壱国や邪馬台国でもなく、「女王国」だったという事です。 「女王之所」や「女王国」がそれにあたります。  では「女王国」がどこにあったかといえば、伊都国だったという事です。

従来伊都国と「女王国」は別々の国でしたが「世有王皆統属女王国」の新解釈によって解明しました。  それに関連して伊都国に「一大率」が置かれている事は分かっていましたが、どうして伊都国なのかは分かりませんでした。 しかし「女王国」が伊都国だと解釈すると「一大率」が伊都国に置かれている理由も説明できるのです。  ここでは二つの主流である畿内説、九州説に対して伊都国説としています。 (図1)






     
世有王皆統属女王国


上の原文は伊都国を説明する有名な言葉ですが、従来は世有王(歴代伊都国王)と(女王国)は別の国で支配関係があるとされていました。
しかし私は歴代伊都国王の伊都国と「女王国」は同じ国であると考えております。なぜならそのほうが魏志倭人伝を読むうえで合理的に読むことができるからです。

世有王」というのはもちろん伊都国の王を指しますが、「皆統属女王國」の「女王国」は現代の常識では伊都国の王とは別の王であり、女王がいる国を「女王国」と考えられています。
しかしよく考えると魏志倭人伝の中に王がいる国というのは(卑弥呼に属する国の中では)伊都国しかありません。つまり伊都国の王が女王であって伊都国の歴代の王は(卑弥呼の時代の)女王国を支配している(いた)と考えられるのではないでしょうか?


また「郡使往来常所駐」という郡使の目的地は伊都国だけであったということも、一大率が置かれたことも、伊都国が「女王国」であったからだと思います。
女王国」という言葉は首都の意味で、邪馬壱国というのは七万余戸を抱えた(現代の日本と同じ意味)と考えられます

」は「世有王皆」(卑弥呼を含め)歴代の王のことで卑弥呼もその一人
」は統一の「統」で、「世有王皆」と「女王国」が同じ国。
」は所属するの「」。

 さらに「女王国」を伊都国と解釈すると、 「世有王皆統属女王国」は
(卑弥呼を含めた)歴代の王は(卑弥呼の時代の)同じ伊都国に属している。


世有王皆統属女王国

これまで書いてきた上記のものは長くサイトに載せてきたものだ。 これは「」という字を「世有王」に続けて読む場合であり「」とは卑弥呼を含めた歴代の王と解釈してきた。 しかし「」の意味を歴代の王とする可能性ではなく他の可能性はないだろうかと、ふと考えたことがあった。

それは今までのように「世有王皆」を続けて読むのではなく「世有王」で一旦区切り次の文として「」から 始まるという読み方だ。これは「伊都国に王が居る」、そして「」が「皆統属女王國」という読み方になる。 そうなると今まで「」を歴代の王としてきた意味にはならなくなる。 「」とは何だろう?と考えると直ぐに伊都国以外の各国があるじゃないか。 とすぐに気がついた。

伊都国には王がいる。「」(各国)は「女王国」に「統属」する。





自郡至女王国萬二千余里


帯方郡から女王国まで1万2千里


ここではっきり帯方郡(ソウルあたり)から女王国までの距離が1万2千里と書いてあります。 「女王国」が伊都国だとすると、伝に記載されている行程を足すと1万5百里。

ただし1万5百里は1万2千里の誤差の範囲。なぜならこれは国と国の間の距離をたしたもので各国の国の中の距離が入ってない。

例えると韓国から海を千里で対馬、また千里で壱岐。これを単純に足すと二千里だが、二千里に対馬の島の長さが入っていないのではないかと考えることができる。

総距離は二千里プラス島の長さと考えられ、各国を通過するたびに足した距離と総距離に差がでてくるのです。

また水行10日陸行1月は(1万2千里)の行程を述べただけなので、帯方郡から1万2千里にかわりはない。

日本は島国で海を渡らないと行くことができません。だから丁寧に水行と陸行を分けて書いたのです。

朝鮮半島を陸行、海峡を水行すると女王国=首都に着くことができるのです。

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邪馬壱国と倭は同じ民族名の国です。邪馬壱国は見下した言い方で、当時の上下関係からすると当たり前なのです。一方倭が正式な民族名です。邪馬壱国と倭は「ヤマイコク」と「イ」と読む。すると「イ」という民族名がでてきます。一大率、一大国の「一」も「イ」です。

卑弥呼とほぼ同じ時代に書かれた魏志倭人伝には邪馬台国ではなく邪馬壱国と書かれています。この「壱」、漢委奴国王の「委」、親魏倭王の「倭」、伊都国の「伊」、一大率の「一」はすべて同じ民族を表した言葉だと思います。


 もう気がついたでしょう邪馬台国ではなく「邪馬壱国」は「ヤマイコク」と読むべきで北部九州を指し、女王のいる首都は伊都国です。

「ヤマイコク」の「イ」、  倭人「イジン」の「イ」は伊都国の「イ」です「イ」と呼ばれる民族が都としていた地こそ伊都国だと思うのです。





陳寿が生きていた時代はほぼ卑弥呼に近い時代でそして魏志倭人伝をまとめた時には 既に卑弥呼は亡くなっていたけど、陳寿が残した魏志倭人伝は約千七百年経った今でも これだけ読まれている。私は陳寿が書いた記録は全て正しいと思っているけど、 一つだけ紛らわしい書き方をしてしまったと思っている。

それは当時は当たり前として気にならなかったことかもしれない。 しかし今では卑弥呼の当時の記録はもちろん陳寿が記録したから存在を知ることが できたし、なんといっても当時の日本には 日本側に記録がない。

陳寿が残した記録の中で一つだけ紛らわしい書き方をしてしまったと 書いたけど、もちろん陳寿に過失はないしその当時人々が読んでも誤解は無く読めたものだった。 しかしそれから数百年後、「後漢書」をまとめた范曄は 過去の魏志倭人伝を参考にして過去の記録の部分は良く似た文章にしたけど、 参考にしたが故にここで誤解が生まれた。

誤解というのは魏志倭人伝の「南至邪馬壱国女王之所」の部分を 邪馬台国は女王の所 と解釈してしまったことだ。 范曄は「其大倭王居邪馬台国」とした。私が知っている限りここでの誤解 が現代にまで続いている。

一つの間違いは「邪馬壱国」をここで「邪馬台国」としたこと。 二つ目は卑弥呼は邪馬台国の女王だから一見間違ってない様に見える。 しかし魏志倭人伝に邪馬台国の女王という言葉は使われてなく 「倭女王」と書かれていたりする。

邪馬台国は女王の所と解釈したことで「大倭王」は邪馬台国に居ると書いた。 しかし魏志倭人伝をよく読むと「邪馬台国」という言葉は「七万余戸」の国々をまとめる言葉で 狗邪韓国から不弥国までの七ヶ国と其余旁国として書かれた二十一国を超えないものだ。 (図2)

もし居る場所をいうのであれば、「南至邪馬壱国女王之所」を邪馬台国にある女王の所と 解釈して女王の所とは魏志倭人伝に書かれている「女王国」のことだと気が付いてくれるとよかった。

これに気が付いてくれたら居る場所を「女王国」とか「伊都国」に居ると書いてくれただろう。 「女王国」とか「伊都国」に居ると書かずに「其大倭王居邪馬台国」と 書いたからここで誤解していたということがわかる。 誤解していたのは事実で仕方ないことだけど、誤解したことで邪馬台国の問題がここから出発したことがわかった。

これを見ている人は邪馬台国という言葉に惑わされているままかもしれない。 邪馬台国という言葉は伊都国だけではなく、伊都国も邪馬台国だし、 奴国も邪馬台国、不弥国も邪馬台国という意味でこれが二十八国まとまっているだけだ。

南至邪馬壱国女王之所」を邪馬台国は女王の所と解釈したことで誤解が生まれた。 これはその後も繰りかえされて、現代でも邪馬台国は女王の都と言われ続けている。 約千六百年経った今でもこれが常識になっている事はすごいことだけど言葉にならない。

よく邪馬台国がどこにあるかわからないことを陳寿のせいにする人がいる。 しかし最大の間違いを犯したのは陳寿ではなく、范曄だった。 この范曄の誤解を以降現代人まで続けてきたことは 邪馬台国を解明する上で最も不幸なことだった。 范曄が書いた「後漢書」をすべて否定するのではない。 たった一箇所の大きな誤解を否定し、陳寿が書いた部分を読めば答えは出てくる。

千六百年誤解されたままだからこれを覆すことは大変だ。 だから今日議論を交わしたりして 百人に聞いても百人が邪馬台国は女王の都と答える。 これでは一向に解決できないということに早く気がついてほしい。 気がついた時、千六百年間誤解し続けてきたことに更に気づくだろう。 邪馬台国は女王の都と考える人の為にこのサイトは公開し続けるし 二十四時間発信し続けることは大事なことだ。


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