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男子為王住七八十年



其国本亦以男子為王住七八十年倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑弥呼

の中の「七八十年」の言葉に注目してみたいと思います。 この「七八十年」を私は直前の「男子為王住」のことだと考え、 「七八十年」の間、男王が統治する時代があったと解釈しています。

そう考えるのは直後に 倭国乱 が書かれていて、その結果(従来のように男王を たてるのではなく)女王卑弥呼を共立したことになっています。 その事実を「七八十年」と考えたくもなるが、 倭国乱 の直後には 「相攻伐歴年」と書かれ「歴年」となっているので、こちらの 「歴年」の方が 倭国乱 の長さを表しているように思えます。

では素直に「七八十年」を男王の時代の長さと考えていいのか?というと やはりこれも直ぐに当てはめることはできないかもしれません。 伊都国にある 平原遺跡 が女王卑弥呼の墓だと考えると伊都国には 既に数百年に亘って王墓が存在するからです。 そこで考えられる幾つかをまとめると、

一つ目は男王の統治した期間と考える方法。

二つ目は以前の男王が亡くなってから 倭国乱 までの期間。

伊都国を説明するところに、「世有王皆」と書かれ、「」があるので、 もちろん男王は複数です。 一つ目は「七八十年」の直前に「」があり、(とどまる)と読めるので、 「七八十年」は男王の時代が続いたが「七八十年」で終わったと読める。

二つ目は倭国乱の年代、220年頃とすると(何故なのかは倭国乱の時期 を見て下さい。)その「七八十年」前だとする読み方。 卑弥呼共立以前の男王を説明する文であり、過去の説明に なっているので、「七八十年」前に「」(とどまる)という意味。 それだと以前の男王が亡くなるのは140年頃になります。 伊都国の歴代の王墓は三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、 平原遺跡 と誰もが納得する時代の流れがあるので、 平原遺跡 以前の井原鑓溝遺跡の 王墓が築かれたのが140年頃なのか?

一つ目のように素直に読むならば、男王(複数)の統治する時代が 「七八十年」と読めるし、 二つ目のように仮に「其国」が奴国、伊都国の王を倭国王と当てはめると、 倭国乱 の「七八十年」前に男王の統治する時代が終わったとも読める。

私は考古学者ではないので、井原鑓溝遺跡の年代を特定することは できないが、後世の考古学者に聞いてみたい。

これに関連して「後漢書」にはどのように書いてあるかというと、 「桓霊間倭国大乱更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑弥呼

既に 倭国乱の時期 のページで女王卑弥呼の年代を200年頃の生まれと 考えたので、後漢書のいう「桓霊間」という年代は女王卑弥呼生前以前 の時代となってしまいます。

だから「後漢書」のいう「倭国大乱」の 時代は間違っています。ちなみに「後漢書」には 「七八十年」の言葉は書かれていません。 ですから魏志倭人伝の「住七八十年」が重要であり、 考察をしなければならないと思うのです。

伊都国について「住七八十年」というのをあてはめるとどのようになるかということを 考えてみた。伊都国には三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、 平原遺跡 という流れがあるが、 これだけで、既に数百年の時が流れているので「住七八十年」が説明できない。

遺跡から見た倭国の王という意味では三雲南小路遺跡とほぼ同じ時期に須玖岡本の王があり、 次に井原鑓溝遺跡という流れが存在する。

中国の記録には漢書王莽伝に「東夷王度大海奉國珍」、「東夷王」が海を渡って・・・とあり、
次に後漢書「倭奴國奉貢朝賀」、57年漢委奴国王・・・
次に後漢書「倭國王帥升」、107年となる。

この中国に記録が残った三人の王を三人の王墓の王に順番に当てはめてみた。 すると王が居た場所が伊都国、奴国、伊都国という順番になる。 なぜ王の居た場所がこのように移動するのかはわからないが、 単純に考えるとこの二国はやはり仲が良くなかったという考えは 案外妥当かもしれない。

では「住七八十年」が何だったのかというのは 「其国」と「倭国」がどの範囲を指していたのかを考えてみなければならない。 以前から私は「其国」を女王国=伊都国と考えてきたけども、 伊都国だけでは「住七八十年」が説明できないし、 だからといって三雲南小路遺跡までさかのぼることも時代が離れすぎている。

住七八十年」は男王の統治する時代が七八十年でとどまる、だから 卑弥呼の時代の前に登場する井原鑓溝遺跡の王と須玖岡本の王の 二つの国の存在がこれに当てはまるのではないかと考えた。この二人の王は 57年と107年で、間は50年しかない。もちろんこれではあわないけども、 これは朝貢の年であり実際に王が在位していた年代は正確には わからない。

57年と107年の前後に王が即位し退位したという 考えからすれば、この間を七八十年と考えても無理はないと思う。 つまり須玖岡本の王は大まかに42年頃即位し井原鑓溝遺跡の王は122年頃退位した。 これは単純に朝貢の年からそれぞれ15年ずらしただけだけど、 この間の80年という間は陳寿がいう「住七八十年」だと考えてみたい。

もちろん王はいつの時代にも居たけど、記録に残る王という のは限られていて陳寿は朝貢等で明らかになった王を倭国王と認識して 書いたと思う。



埋蔵文化財センター

奴国から巴形銅器の鋳型が見つかった。ニュースでこれを知り福岡市の 埋蔵文化財センターで展示があるというので早速、足を運んだ。 撮影も可能だったので遠慮なく撮ってきた。

ニュースでは、奴国で作られた巴形銅器が伊都国で過去に発見された巴形銅器 と類似しているという。 伊都国から発見された巴形銅器というのは井原鑓溝遺跡から発見されたもので、 場所は不明のまま。 しかし青柳種信によって絵図と拓本が残されている。実際にはこれに類似しているが、 同一のものではなく同じ集団が作り伊都国の井原鑓溝の王墓に副葬されたと思われる。

巴形銅器

一般的な見方では奴国で作られ、伊都国で副葬されるという関係から この二国は友好関係にあったとみられるだろう。 しかし私は全く反対の意見だ。

倭国乱相攻伐歴年」「暦年」の間、倭国が乱れた。

遺跡から見た倭国の王という意味では三雲南小路遺跡の後に須玖岡本の王があり、 次に井原鑓溝遺跡という流れが存在する。 これは伊都国、奴国、伊都国と、時代によってそれぞれの各国の王が倭人を代表する倭国王 となっている。

つまり卑弥呼が共立される直前の「暦年」だけではなく、三雲南小路の時代から 伊都国と奴国は倭人を代表する倭国王となる為に争っており、 その結果、王墓が奴国、伊都国、奴国と移動することになった。

今回発見の奴国で作られた巴形銅器は伊都国の井原鑓溝遺跡の王墓に副葬されたものに 類似するので、この時代のものだ。

三雲南小路の王は後漢書東夷列伝の 「東夷王度大海奉国珍」紀元5年に 該当し、伊都国の王であると同時に「東夷王」であり倭国王であった。

須玖岡本の王は後漢書の 「倭奴國奉貢朝賀」57年に 該当し、奴国の王であると同時に倭国王であった。

井原鑓溝の王は後漢書の「倭国王帥升等」107年の「倭国王帥升」に 該当し、伊都国の王であると同時に倭国王であった。

日本に記録がないとしても中国には各時代の王の記録がある。 その王とは各時代の倭国王である。


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