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自女王国以北と七万余戸



魏志倭人伝にはもう一つの「自女王国以北」がでてきます。 「自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳」です。

これも女王国伊都国とし、伊都国内を含むと考えると、 伊都国を含む北は一大国対馬国等はすでに説明済みだから「略載」(あらためて書かない)できるけども 其他の国は遠く離れているので詳しく書けない。

と解釈できるのではないでしょうか。 もちろんこの文の前にすでに各国の行程を示しているわけですから、この様に考えることができます。 (図1)



七万余戸」について 邪馬台国には「七万余戸」と書かれている。 しかしなぜ「七万余戸」なのかと考えた人はいないでしょう。

一般的には倭人が「七万余戸」と答えた、と考えれば簡単に説明できてしまいます。 陳寿は日本に来たことがないので、情報源は限られています。 しかし陳寿が書いた魏志倭人伝を読んでいくと 邪馬台国は「七万余戸」で二十八ヶ国から成ると説明ができてしまいます。 二十八ヶ国の内訳は七ヶ国+二十一ヶ国です。 ちなみに「倭人・・・・・三十国」は二十八ヶ国と「投馬国」と「狗奴国」です。

二十八ヶ国が「七万余戸」ならば、疑問がでてきます。 二十八ヶ国の内、七ヶ国は「狗邪韓国」を除いて戸数が書かれています。 しかし「其余旁国」と書かれた二十一ヶ国は「其余旁国遠絶不可得詳」と書き 遠くてよくわからないという理由で戸数が書かれていません。 これでは二十一ヶ国という大部分の戸数がわからないのに なぜ「七万余戸」だとわかるのか?という疑問がでてきます。

女王卑弥呼以前の伊都国は楽浪郡との交流がありました。 伊都国の地から楽浪系の土器が出土しています。 その楽浪郡は「漢書」、地理志に記録が残っています。 楽浪郡は 25県を有し、戸数6万2812戸です。 人口406748人で平均一戸あたり約6.47人。 楽浪郡の一県あたりの平均戸数は約2512戸ということになります。

一世紀の漢書、地理志が楽浪郡の記録を記している。 その楽浪郡と交流のあった伊都国、そして 邪馬台国二十八ヶ国の中の二十一ヶ国についての戸数 を陳寿は把握できなかった。

という理由から、 陳寿は楽浪郡の記録を元に邪馬台国の「七万余戸」を計算したのではないかという 推測を立てることができる。

楽浪郡の一県あたりの平均戸数は約2512戸。これに 邪馬台国、二十八ヶ国を掛けてみる。 すると70349戸という数がでてくる。 陳寿は「其余旁国遠絶不可得詳」と書き二十一ヶ国について 詳しくわからなかった。 そして邪馬台国は二十八ヶ国と考えられる。 ということから陳寿は楽浪郡と同じ規模だという考えから 計算して「七万余戸」という戸数をだしたのではないでしょうか?



伊都国からはよく遺物が出土する。三雲南小路遺跡や、井原遺跡、平原遺跡等の王の墓はもちろん 有名だけど、それ以外の住居跡等である。これは隣の奴国等と一緒に出土量からして大国だった 証であり、他の地域とは明白に格差がある。

去年今宿五郎江遺跡の環濠を見学に行った。この 場所は現在の福岡市に属しているので福岡市側が発掘していたが、福岡市も前原市もこの今宿の場所 は伊都国の範囲という共通認識になっている。志摩町、二丈町もそうだが複数の行政機関が 参加する形となるので伊都国を発掘するという意味では効率がいいだろう。



伊都国から遺物が多く出土するので伊都国が注目されるのは いいことだけど気になる考え方がある。 私以外にも伊都国に注目する方がいる一方、 やはり伊都国に注目し平原遺跡が卑弥呼の墓と 考える人の中にも糸島半島に邪馬台国があったと考える人がいる。

伊都国の他に伊都国と隣接する場所に「邪馬台国」があったとする説や、
伊都国の他に伊都国と隣接する場所に「女王国」があったとする説だ。

私は「女王国」が伊都国だと考えているので邪馬台国が伊都国だけとは考えていない。 戸数でいえば、「七万余戸」の中に伊都国の「千余戸」は収まるけど、 福岡市西区を含め糸島半島の中に「七万余戸」が収まるとはとても思えない。

陳寿が書いた「七万余戸」という数字が楽浪郡の平均戸数から比較して 70349戸という近い数字をだすことができるので

人口の場合も楽浪郡の平均から邪馬台国の人口を計算できる。 楽浪郡の人口406748人から戸数6万2812戸の一戸あたりの人口が約6.47人と出てくるので、 これで邪馬台国の人口を推定する。 一戸約6.47人かける「七万余戸」で452900人になった。

これが邪馬台国の推定人口になる。 これは現在の福岡市の人口の約三分の一の規模になる。 この人口が前原市や福岡市西区に存在することは物理的に無理だから これをここに想定することはできない。

現代でもジャングルの森の中に生活する人々をテレビを見て目にすることがある。 ウルルン滞在記等で生活を見ることができるけど、そこに住む人々は自給生活を 送ってせいぜい多くても百人程度だろう。それ以上 になると自給生活が送れなくなるからだ。現代のように食料移送用のトラックが あったり冷蔵庫があるわけではない。

伊都国をみても中心部分には環濠が掘られその周りは墓域になっている。 そのまわりは田んぼという具合だ。 45万人「七万余戸」の人々が同じ地域に住むということはできない。



今宿五郎江遺跡 の環濠を見学に行った時に職員の方に質問したことを思い出した。 環濠の中には同時に何人の人が住んでいたのですか?と聞いた。 答えには困ってたみたいだけど数百人と答えたと思う。

環濠に守られた人々が住んでいたのはせいぜいその規模であり、 他に伊都国の中心以外にも環濠が一部出土しているそうだが、 それが戸数でどれだけと表現するのはできないが「七万余戸」という 規模がそこにないのは明らかだ。



邪馬台国の人口が楽浪郡の人口406748人より多くなるということは考えるまでも ない。戸数6万2812戸の楽浪郡より「七万余戸」の邪馬台国の方が人口 が多くなるというのは簡単に予想できる。計算した数字は大きく外れるものではないだろう。

世間の圧倒的な意見である邪馬台国は女王の都、と考えている人々は 今回計算した452900人が住む場所を探している。 前にも書いたが奴国がある福岡平野は どこを掘っても何か出てくる様な状況で「二万余戸」しかない。 楽浪郡の平均からこれを当てはめてみても129400人が住んでいたことになる。

もし邪馬台国が女王の都であるならば、全体の数は何戸だったのだろう。 魏志倭人伝には書かれていない。

だから452900人が住みこれだけの人口が集中する場所を探すという行為は 可笑しいと早く気づいてほしい。これは九州説、近畿説にもいえることなので 探すということに何かおかしいと感じる人は、魏志倭人伝の「南至邪馬壱国女王之所」 を何も考えずに邪馬台国は女王の所とする常識に疑問を持ってほしいのです。


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