伊都国女王卑弥呼 >平原遺跡



平原遺跡




平原遺跡から出土の銅鏡40面や玉類等が国宝に指定されました。

伊都国があった福岡県前原市では 平原遺跡が発掘され、地元の原田大六 を先頭に作業が進められました。 伊都国歴史博物館 に詳しく展示されています。 副葬品には武器がほとんどなくネックレス やブレスレット等から女王の墓と断定されています。

また、漢の高貴な女性がピアスとしてつけていた 「耳とう」というものが、この時代日本で唯一、遺跡から発見されています。 日本一の46.5センチの銅鏡5枚を含む40枚。一つの墓からでてくる数 としても日本一。他にも特徴があり、この大量の銅鏡はすべて割られて いました。数年前再調査した際、大柱が建てられていた事がわかり、 墳墓を意識してたてられたと考えられるようです。

副葬されていた大型鏡である内行花文鏡 が後の時代の古墳時代の柳本大塚古墳、下池山古墳から出土する 点からして弥生時代というより古墳時代、古墳時代というより 古墳時代の最初の古墳が平原遺跡であって平原遺跡から古墳時代が 始まったといっていいすぎではないように思えます。

平原遺跡案内


また陳寿は卑弥呼の墓について「径百余歩」と書いている。これについて一般にはあまり議論することはない けど、一部には女王卑弥呼の墓は百数十メートルと考えられています。そしてこれを前方後円墳等に 比定し、その根拠となっています。しかしこれについてはっきり言えることは、それは想像に過ぎません。

女王卑弥呼の墓が百数十メートルというのは魏や晋の時代の尺度をそのまま当てただけです。これは 一見正しいように見えますが、既に伊都国女王卑弥呼では「短里」を採用しています。 それは対馬海峡の三千里を考えるとわかります。現代の福岡と釜山の間は約240キロです。 魏や晋の時代の尺度(長里)は一里約440メートルなのです。

これを対馬海峡の三千里に当てはめると 1320キロとなってしまいます。ですから少なくとも陳寿は魏や晋の時代よりも以前に存在した「短里」を 採用していたことがわかります。そしてこの「径百余歩」というのは「短里」でいうと何メートルになるのでしょうか? それは一里=300歩という公式があります。

これに短里=約76メートルを当てはめると一歩は約25.3センチとなります。 そして百歩では約25.3メートルとなり、これが「短里」でいう「径百余歩」の長さです。次に「径」とはどんな意味でしょうか? 「径百余歩」と聞いてすぐに思い浮かぶのは墓の大きさを表すのだから墓の周りを一周の距離と考えてしまいそうですが、それは違います。

墓の周りを一周であれば「周百余歩」と書いたはずで、また陳寿は魏志倭人伝の中で既にある場所を「周旋可五千余里」と 書いているから、こちらは明らかに一周する「周」です。一方「径」は直径、半径などのようにある地点から地点までの 直線を指すと考えられます。ですからある地点からある地点までが「径百余歩」であり約25.3メートルです。

平原遺跡については一号墳以外にも複数確認されていますが、ここでは主体である一号墳を取り上げています。 一号墳は女性が葬られていています。 そして特徴的なのはその墳墓から17.5メートル離れた所に直径七十センチの柱(20メートル)が建てられていました。

また墳墓は方形周溝墓とされていて14かける12メートルだったとされています。この中心部分に遺体があったのです。 これらからわかることは葬られた遺体、柱、これらは特別な意味を持っていたということがわかります。また古代の人々 は明らかに太陽を意識していたし、山際から太陽が昇る位置を見て季節を知っていたのです。

では「径百余歩」は何だったのか?それは平原にある特徴的な柱が関係していると思われます。 この柱は墳墓とは切っても切れない関係にあり墳墓の一部と考えられていたと思います。 それは墳墓の盛土よりも、はっきり目立つ存在であったことは間違いありません。

この建てられていた柱の位置は墳墓から17.5メートル離れた所にあり、また墳墓の14メートルの中心部分に 被葬者は葬られていたので、この半分の7メートルの位置が被葬者が眠る中心の位置です。 この7メートルと墳墓から特別な柱の位置までの17.5メートルを足すと24.5メートルとなります。 別の言い方をするならば、被葬者から特別な柱の位置までが24.5メートルであったことになります。 これが陳寿のいう「径百余歩」であったのではないかと思うのです。

また平原遺跡から出土の鏡はすべて国宝に指定され注目をあつめているけど、これは 現在国内産と考えられています。 伊都国説の立場から平原遺跡が卑弥呼の墓であるならば 全てとはいわなくても、 素直に女王卑弥呼が貰った鏡だと考えるほうが自然ではないでしょうか?


原田大六氏原田大六氏
平原遺跡にあるタイルの写真平原にあるタイルの写真。平原から見た朝日の様子で古代人は朝日が昇る位置で季節を知った。
平原遺跡
平原遺跡

案内
案内

日向峠
日向峠

高祖山
高祖山

朝日
朝日

最近平原遺跡は公園として整備され以前とはまた違った場所になっている。 だからそれから何度か行ってみた。 まず目に付いたのは平原遺跡一号墳が復元されている。実際に目にすると 思ったより大きいのが第一印象だ。

土の流出防止の為だろうけど、以前は芝が継ぎはぎだらけだったのも夏にもなると 緑に覆われまた違った印象になる。

ところでこの墳墓は本当に以前と同じ形なのかということが気になった。 周りの周溝は確かにハッキリしているので間違いないだろうが、 以前から気になっていた、周溝の内部で被葬者が埋葬された場所が東側に寄っている点。 周溝の内部に鳥居らしき跡がある点だ。

周溝は南東の部分が途切れているので現在もそのように復元されているが、 その南東部分から被葬者の埋葬された北東側に寄っている場所を見てみると 直線となり被葬者が中心にくる。 周溝の痕跡から墳丘の形を復元すると現在の形になるけど、 実際は周溝の内部北東寄りだったのではないかと思えてくる。

もう一つは周溝内部の西側に二号鳥居があったことだ。鳥居がいつまで 存在していたのかはわからないけど、墳丘が作られる前にたてられたと 考えられるので、鳥居の部分には墳丘がなかったのではないかとも思える。

この二つの理由で復元された墳丘よりも実際は周溝内部で東寄りに寄っていたはずだ。 整備されたのは墳丘だけではなくて北側にも説明板が設置されたり、 駐車場が整備されていた。

今回出土品が国宝に指定されたので 整備するのはわかるけども見学者がいないのはさみしい。 またトイレの横には自動販売機が設置されているのを見つけた。 普通の自動販売機ではないので驚いた。

平原遺跡1号墳丘
平原遺跡1号墳丘

平原遺跡説明板
平原遺跡説明板

平原遺跡3


平原遺跡説明板2
平原遺跡説明板

自動販売機
自動販売機

平原遠景
平原遠景

平原一号墳
平原一号墳

柵


日向峠
日向峠


伊都国を見る
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