伊都国女王卑弥呼 >二人の女王

二人の女王



」という漢字を見て日本人と中国人では頭に浮かべる内容が違う。

日本人が「」をみると石垣があってそこに天守閣を思い浮かべる。 中国人が「」をみるといわゆる万里の長城を思い浮かべる。 中国人は石や土を高く積み上げそれを「」と考えている。 その「」に囲まれ、敵から防御された場所を「」と考える。

時代は違うが福岡にはいわゆる元寇防塁がある。博多湾に沿って約20キロ ある石垣は日本人には壁のように見えるが中国人の発想ではそれが「」だ。 つまり福岡の街は中国人が考える「」に守られた「」が日本で唯一存在していることになっている。

話は戻って、卑弥呼の時代の当時「」のように敵から守られた「」がどこにあったかといえば、 それは環濠集落しかない。環濠によって守られたその内部はまさしく中国人が考える「」があったことになる。 どこかの地域に環濠集落があってその「」の王が女性だった場合、それは中国人が発想する「女王国」といえる。

平原遺跡はまさしく女性が葬られていて、一時期伊都国は「女王国」だった時代が必ずあった。

邪馬台国は女王の都という常識では邪馬台国という「七万余戸」が集まった地域がどこかにあるという発想だ。 しかし 七万余戸 を約45万人 と考える私はそれらの人々が同じ環濠集落に住んでいたとはとても思えない。 一方、邪馬台国の「七万余戸」が各地に点在した国々=環濠集落の集まりと考えると理解できる。



ここでは二人の女王について考えたいと思います。ここでいう二人の女王 とは女王卑弥呼壱与の事ではありません。一般的にはその様に考える方が 多いとは思いますが、あえて今回は違う意味での二人の女王を考えたいと 思います。

二人の女王の一人は女王卑弥呼です。女王卑弥呼は有名なので問題ないと 思いますが問題はもう一人の女王です。実はこの女王は女王卑弥呼に 比べると目立たないですが、女王卑弥呼とほぼ同じ時代に生きた女王です。 その女王は陳寿が書いた魏志倭人伝には伊都国のとして登場します。

と私は考えているわけですが、 伊都国女王卑弥呼 のサイトをご覧いただければ 理解していただけると思います。魏志倭人伝の中に伊都国を説明する文として 世有王皆統属女王国 と出てきます。

少なくとも伊都国がいた事がわかりますが、 実際に伊都国には三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡、 平原遺跡 等、それぞれの時代に王 が居て大量の鏡、豪華な副葬品を抱えたの墓があります。

平原遺跡 だけは副葬品に 武器が少なくブレスレットやネックレス等がでてくる事から女王の墓と 認知されていますが、もう一人の女王とはこの女王のことです。 この伊都国を治めていた女王と女王卑弥呼の関係は どのような関係なのでしょうか。

時代は同じ時代と考えて良さそうなので 女王卑弥呼と伊都国の女王は別々の場所にいたのでしょうか。 その様に考えることはできますが少なくとも私は違うと思います。 伊都国を治めていた女王は伊都国だけを治めていたのではなく 女王卑弥呼その人ではないかと思います。ここでいう二人の女王は同一人物で 女王卑弥呼そのままなのです。


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